おふらんす文学プロムナード⑩
2010年 03月 30日春だというのに今日は霙のような雨まで降ったりして。稽古自体は全く疲れる内容ではない上に、待ち時間のオンパレード。じゃ、楽じゃん!といった感じなのですが、稽古場がうちからだとちと遠いのです。都営浅草線の泉岳寺なのですよ。文句言うほど遠くないところが消化不良気味。分かる(笑)?!
今日は、待ち時間が2時間ほどあったので、駅の目の前にあります泉岳寺へお参りに行きました。

実は私、忠臣蔵話が好きなのですよ。学生の頃にハマリマシタ。歴史上の出来事にはまるのもなんですが、いるでしょ、たまに「大化の改新」が好きだ、とか言う人(笑)。そんな感じで。学生時代にお参りに来たこともあります。ですから今日も空き時間を利用してここぞとばかりに参りました。


どんな気持ちで町人になりすまし、いつ明けるともしれない長い時間を過ごし、そしてついに討ち入りを果たし、切腹していったのでしょう。それを思うと涙がこみ上げてきます。赤穂浪士に対しては色々な解釈があると思いますが、確かに忠義や人情というものは、我々の心を動かします。
藤沢周平や山本周五郎の作品を偏愛しています。そして読む度に猛省させられます。
「あー、私は言いたいことをいとも簡単に、且つとりとめもなく発言しすぎだー!」と。
意思を持つことの大切さ、そして自由に自分の意見を発表する柔軟さと勇気を持つことを肝に銘じて生きています。それなのに優れた時代小説を読むと、「なんて自分には忍耐が足りないのだろう。自尊心や家族を守るために、または理不尽だとさえ思えるような何かのために人は無口に耐え忍んで人生を懸けて戦うべきなのかもしれない。私のバカバカバカー!」となってしまいます。今日も分裂気味。でもどちらもきっと正しいのでしょうね。てんびん座なのでバランスを大切にしたいと思います(笑)。
さてお参り中、内匠頭の辞世の句を思い出してみましたが、何度口に出しても
「かぜさそう はなよりもなお われはまた はるのなごりを フフフフフフン」
となってしまう情けない私。
かぜさそう はなよりもなお われはまた はるのなごりを いかにとやせん
でした。思い出すことがリハビリ。ネットで調べちゃったけど。
それにしても昔の人のうたを詠むという教養の高さには驚きを隠しきれません。源氏物語の時代の歌詠み合戦は別に何とも思いませんが(だって恋愛のために歌を詠んで暮らすことがメインでしょ、あの人たちの人生。かなりの曲解)、やはりそれ以降の時代における、特に辞世の句にはハッとさせられます。
私は人に気持ちを伝える時にグダグダ述べる癖があるので、端的に内容を伝えられるように短歌を詠む練習をしたことがあります。これは当時の演出の先生に個人的に出された課題でした。でもセンスがなくて自分でもびっくり&がっかりしました。私のお祖母さんは短歌を詠む人で、本まで出ているというのに情けないことこの上なしです。でも「あいうえお作文」の様式を用いた詩作には一時執心しました。予想外の良い結果を得ることが多く、気に入って、多くの友人の名前で挑戦し、詩をプレゼントして遊んでいました。迷惑な話だねぇ。
ま、そんな感じで今日も藤沢周平を読みながら寝ることにします。
では今日の周平からの一言…。苦渋に満ちた心の嘆きです。まさにラメント。
「汚いこと、けがらわしいことを避けては、生きていけない世界に、大人は住んでいる。商い、女、世間との付き合い……。そういうものの間を大人は時に人を出し抜いたり、だましたり、本心を偽ったりして辛うじて泳ぎ抜くのだ。そこには大人の喜びがないとは言わないが、その喜びは、時には罪の意識にいろどられ、時には薄汚れて、大方は正視に耐えない姿で現れてくるのである。そういう不純な部分を抱え込むことで、大人の世界が成り立っている。」
関連して急にボードレールの詩句を思い出した。
多くの花は 悔いつつ放つ Mainte fleur épanche à regret
秘密のような芳香を Son parfum doux comme un secret
深い孤独のただ中で Dans les solitudes profondes.
おやすみなさい~。